Blog / KANO空感設計 あすまい空感日記・・・明日の私(MY)の住まい

私の高校時代(県立多治見北高等学校)の思い出

前回ブログの続きです。
前回は、NHK朝ドラマ「半分、青い。」の鈴愛たちが通った「朝露高校」のロケ地の岐阜県立土岐商業高等学校  
以降は、私の高校時代についてです。 
 
<私の高校受験先が決まるいきさつ>
中学生の3年生の初め頃までは、決して豊かではない家庭環境や三人兄弟ということもあって、大学に進学するイメージが自分に全然なく、高校を卒業したら、就職するつもりで、土岐市妻木町の自宅から近く、自転車で通える進学先として、土岐商業高校を考えていました。
普通科を卒業して、高卒で就職するイメージはありませんでした。
もっと近くて歩いて行ける、隣町の下石町(おろし 私の生まれた地)に、県立土岐高(現・土岐紅陵高校)がありましたが、普通科高校でしたので、考慮対象外でした。
中学校で行われた、親を含めた進路三者面談で、進路希望先が土岐商であることを担任の先生に伝えたところ、「奨学金という制度があるから、大学に行ったほうがいい。国公立大学なら、私立よりずっと学費は安い。」と言われ、大学進学をめざし、普通科を受験することを決めました。
先生の「大学に行ったほうがいい」という言葉がなければ、土岐商に進学して、多分、地元に就職していたでしょうから、私の人生はそうとう大きく違っていたと思います。
今の妻とも出会わないし、妻の出身地である岡崎で設計事務所をしているなんてことはないのです。
 
岐阜県立多治見北高等学校を受験して、合格しました。
模試判定が合格圏だったので、すべり止めの私立高校を受験しませんでした。
今思えば、不合格や体調不良や遅刻したりしたら、大変なことになるところでした。

<高校入学>
 多治見北高は、ほぼ毎年、東大や京大合格者を輩出する東濃一、県で3~5番目くらいの進学校です。
NHK朝ドラマ「半分、青い。」の鈴愛たちが通った、架空の「朝露高校」のロケ地のもうひとつである、可児市の県立可児高校は、東濃西部では、多治見北高につぐ進学校です。
愛知県に隣接する、多治見市や可児市は、名古屋や愛知県のベッドタウンとして、特に丘陵地を利用した宅地造成が以前からさかんに行われており、愛知県からの比較的富裕層の移住家庭が多いです。
今の私の多治見の実家がそういう立地の場所で、周辺に大規模な住宅団地がいくつもあります。
通学用自転車・鞄・靴等の制約も特にない自由な学風でした。

高校の周囲に観光名所が多数あります。多治見市観光協会 
高校の隣にはキリスト教の多治見修道院があります。多治見市緑ヶ丘38
美術の授業時間に絵を描きに行きました。教会内に入ったこともあります。
1930年(昭和5年)カトリック神言修道会(神言会)日本管区の本部修道院として宣教師モール神父によって設立されました。
当時は、外国からの宣教師が大勢ここに来られ、日本語の勉強をしながら修道生活を送り、また、キリスト教を宣教するため派遣されました。
その後、宣教活動も拡大し、神言会が設立した「南山学園」における教育活動事業の拡張に伴い、宣教活動の拠点は名古屋に移されました。
修道院として、日本で唯一のぶどう畑からとれた多治見修道院ワインが有名です。
設立当時からミサで使うために葡萄栽培をしています。

 校舎の裏山の虎渓山に、桜の名所の虎渓公園があります。多治見市弁天町3丁目
岐阜県選定の「飛騨・美濃さくら三十三選」に選ばれています。
戦没者慰霊のため観音像が建立されており、終戦記念日に慰霊祭が行われます。
展望台があり、多治見市街を眺められます。
虎渓山はマラソン大会のコースの一部でした。

虎渓公園から下りた土岐川近くに、鎌倉時代の1313年土岐氏の招きをうけた夢窓疎石創建した、永保寺があります。多治見市虎渓山町1-40
鎌倉末期の観音堂と開山堂(足利尊氏の建立)が国宝です。
 池泉回遊式庭園(夢窓国師の作庭)は国の名勝です。
グーグル・ストリートビューで境内が見られます。
臨済宗南禅寺派の禅寺です。
部活の時に、この寺まで降りる階段を上り下りしてトレーニングしていました。

 
妻木町の自宅から約9kmの道のりを自転車通学していました。
車で20分の距離ですが、市境にある山を越えなくてはならず、交通量の多い県道66号の山越え部分には一部歩道がない区間があり、今思えば、危険なところを長時間かけて、よく通学してたもんだと思います。
丈夫な体をつくったのはこの時のおかげもあるのかなと思います。
雨でもバスに乗った記憶がありません。
自宅から最寄バス停は近かったですが、高校の最寄バス停からは少し距離があり、歩いて10分くらいかかりました。
妻木町や下石町には鉄道はないので、自転車かバスで通学する方法しかありません。
かつては、東濃鉄道駄知線が駄知町の東駄知駅から下石町を通り、JR中央線の土岐市駅まで、通っていましたが、1974年、私が駄知町のわかば保育園に通ってた頃に廃線になりました。
仮にその線路が残っていたとしても、鉄道を使うと、かなり大まわりでした。
東駄知駅の近くに住んだこともあります。その後、本町に引っ越ししました。
高校では、以前住んでいた、土岐市駄知町から通学してくる同級生にも再会しました。
小学校6年生の時に、駄知町から、母の実家のあった妻木町に引っ越ししたのです。
転校して間もないのに、まわりから推薦されて、後期児童会の書記に立候補して、当選し、児童会運営にたずさわりました。
駄知町では、設計事務所設立後に、全面フルリフォームである、「土岐の家リフォーム/土岐」を設計させていただき、縁を感じています。
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高校3年生の時に、多治見市に引っ越しますが、北部丘陵にある自宅からも丘越えをしなければなりませんでしたが、距離は約7km弱で、「山」ほどは高くない団地内の丘なので、妻木町の時よりはましでした。
山越えしないルートもありましたが、おおまわりでした。
    
<バドミントン部>
高校では、バドミントン部に入りました。
朝ドラマの鈴愛の同級生のブッチャーと同じように、好きな子がいたからという動機ではないですが、女子と一緒の部活なので、少しは淡い期待を抱いて、入ったということもあります。
中学では体操部でしたが、高校には体操部がありませんでした。たとえ、あったとしても入らなかったです。
小学校でよく一緒に鉄棒で遊んでいた、友達がたくさん体操部に入ったから、一緒に入っただけであり、バク転や鉄棒の大回転はできましたが、そんなに得意ではありませんでした。
体操競技というのは、失敗すれば、おおけがをする可能性があるので、恐怖と己との戦いでもあり、もう怖いのはいやだと思っていました。
部活の練習はまじめにやりませんでしたが、筋力をつける自宅でのトレーニングは一生懸命にやっていました。
毎日、寝る前に、腹筋100回。腕立て伏せ100回を続けていました。
体操部では友達が多くでき、学外でもよく一緒に遊びました。
今も交流している友達もいます。
 
文科系部活には興味がなく、体育会系に入るつもりでした。
中学校にもあるバスケなどの部活では、運動神経のあまりよくない自分では、中学からやっている同級生にはとうてい勝てず、レギュラーになれる自信は全くなかったので、あえて、中学にはない部活として、バドミントン部を選んだという理由もあります。
バドミントン部は子供の頃にレジャーとして遊んだ、楽そうなイメージがありましたが、全く違うとてもハードなスポーツでした。
シャトル(羽根)をスマッシュするとものすごいスピードが出ます。
テニスは就職してからラケットとボールを買って、同僚の方たちとよくやりましたが、それまではやったことがなかったです。
バドミントンとはラケットがまるで違います。もっと軽くて、小さいです。
ガット(糸)がよく切れるので、しょちゅう張り直しをしていました。
バドミントンは体育館でやるのですが、風が禁物です。シャトルが風に大きく影響されるからです。
そのため、真夏でも窓を閉め切ってやらなければならず、暑かったです。

<映像研究会>
漫画やアニメやプラモデルが好きだったので、同じ出身中学の友達に誘われて、映像研究会という同好会にも入り、兼部していました。
中学生の時に、アニメ好きな別の友達と、名古屋の南山大学の大学祭に行ったことがあり、アニメ研究会?(名前は忘れました)のセル画や同人誌などを見たことがあり、映像研究会というものがどんな同好会かはある程度は想像はついていました。
その時に、昭和区杁中にあった三洋堂書店にも行き、アニメ関係の雑誌や本も買いました。
当時は、アニメージュ等のアニメ雑誌やホビージャパンという模型雑誌を購読していました。
今思えば「オタク」っぽいですが、当時は、中・高校生であり、そういう認識はあまりありませんでした。
私と同様に、バドミントン部と映像研究会を兼部していた友達もいました。
彼とは、今年、卒業以来、30年たって初めて開催された、高校の同窓会で会いました。懐かしかったです。
過去ブログ
県立多治見北高等学校の第27回生の学年同窓会に参加
映像研究会では、自主制作アニメや映像等をつくっていました。
それらを高校の文化祭である「北辰祭」や新入生歓迎会などで上映していました。
 
自分でデザインしたオリジナルの戦闘機をプラ板(プラスチックの板のこと)で作り、映像作品に使ってもらった覚えがあります。
映画スターウォーズやロボットアニメに影響されたような三角形の宇宙戦闘機っぽいデザインでした。
私は、バドミントン部には毎日参加していましたが、映像研究会は、たまに顔を出す程度で、あまり参加していませんでした。
プラモデルにはまったきっかけは、小学校高学年から中学生の時に大流行した、「ガンプラ(機動戦士ガンダムのプラモデル)」です。
大人になってから、2013年にお台場の実物大のガンダムを見た時はカッコイーと感動しました。
過去ブログ
東京横浜建築旅行 3日目 お台場・丸の内の建築見学
2016年には、大阪の万博記念公園前のエキスポランド跡地(当時万博会場の一部)にできた、EXPO CITYで、巨大ガンダムとシャアザクとの戦闘シーンも見ました。お台場ガンダムのほうがいいと思いました。

他にもたくさん、ロボットアニメ系のプラモデルをつくりました。
超時空要塞マクロス、超時空オーガス、聖戦士ダンバイン、装甲騎兵ボトムズ、重戦機エルガイム等。
大人になってから、ビデオを借りてきて、全編見返したものもあります。ガンダム、マクロス映画、ダンバイン、ボトムズ
他にも、車やバイク、船、戦車などいろいろ。
そのうち、ただ単に造るだけでは飽き足らず、模型雑誌を参考に、自分でたくさんのプラカラーを買ってきて、色を塗ったり、パテを盛ったり、戦闘シーンを再現したジオラマを造ったりしていました。
そうしたオリジナルデザインで、ものをつくることが好きだったことが、創造意欲をわきたて、建築への道を歩むきっかけのひとつになったかもしれないです。

現在は、プラモデルは全くつくりませんが、自分で設計した住宅模型を作るのは自分でやっており、模型を作るのは好きです。
プラモデルと違って、模型は一から全て材料からカットして作るので、おもしろいです。
過去ブログ
住宅模型とプラモデルづくり
プラモデルづくりと住宅模型づくり
デンマーク生まれのレゴ以外の優れた国産ブロック LaQ・ダイヤブロック・ニューブロック

漫画は、中学生の頃は、週刊ジャンプを毎週買ってました。
アニメ化された漫画が多いです。
高橋留美子:うる星やつら、めぞん一刻、るーみっくワールド
大友克洋:AKIRAに強い影響を受けました。映画版はあまり好きではないです。今でも人気ありますね。以前、カップヌードルのCMになりましたし。
仮囲いに「AKIRA」アート作品第2弾 渋谷パルコ建て替え工事現場 /東京 Yahoo!ニュース
宮崎駿監督:風の谷のナウシカ、天空の城ラピュタは映画館で見ました。宮崎監督の作品の中で一番好きなのは、ラピュタです。
他に映画館で見たアニメは、うる星やつらビューティフルドリーマー、少年ケニア、レンズマン

<映画>
SF映画などが好きでした。

<読書>
小学生の時は図書館の本を借りてきては、たくさん読んでいました。
児童文学や偉人伝とか日本の歴史とか科学や図鑑やいろんなジャンルを。
中学生の時はあまり、本を読んでませんでした。
高校生になって、友達に影響されて本を借り、また、本好きになりました。
推理小説では、赤川次郎、江戸川乱歩など。
SF小説が特に好きで、筒井康隆(時をかける少女(映画化)など)、星新一、 安部公房(砂の女など)、新井素子、栗本薫、小松左京、高千穂遙、半村良、平井和正など。
図書館にはよく行ってました。
 
アート>
 絵が好きで、美術を選択していました。
当時、好きだった絵画は、ルネ・マグリットサルバドール・ダリ、キリコなど、非現実的なシュルレアリスムの絵が好きでした。

<ラジオ>
中学生の時は洋楽が好きだったので、FM愛知(現・@FM)が好きでした。
高校ではAMラジオを聴くのが好きでした。ラジオパラダイスというラジオ雑誌を買っていました。
オールナイトニッポン、三宅裕司のヤングパラダイス、吉田照美のてるてるワイドなど。
DJで好きだったのは、小森まなみmamiのRADIかるコミュニケーション)、小堀勝啓(CBCアナウンサー)、コサキン(小堺一機と関根勤 コサキン無理矢理100%)、斉藤洋美(ラジオはアメリカン)、など。
伊藤秀志や松野千代美(YOUNG STUDIO 岐阜放送) 
 東海地方の放送局ではない東京の局を聞くことが多かったので、クリアな音声じゃなかったです。
おもしろい番組は深夜が多かったので、夜更かししていました。

 <アルバイト>
自分で好きなものを買うためにアルバイトをしていました。夏休み、冬休み、春休みなどの長期休みを利用して。
多治見郵便局で年賀状配達、土岐市駅前の三起屋百貨店(現在はバローグループですが、当時は違いました)で、お菓子の商品出し、土岐市美濃焼団地の陶器工場で箱詰め、ローラースケート場の監視員。
今思えば、なんで、全部、そんなに遠いところに自転車でバイトに行ってたんだろう?
多治見郵便局は国道19号と国道248号の交差点付近にあり、高校に行くよりも遠かった上、配達担当地域が、多治見市の美坂町で、土岐市寄りだったので、配達が終わると、本局にかなり戻らなけばならないので、毎回、同じところを2往復していたことになります。しかも、美坂町は坂の多い地域です。

<理系か文系か>
高校2年生から、理系と文系に選択科目が分かれました。物理と日本史を選択しました。
2年生の時に、元フジテレビアナウンサーでタレントの近藤サトさんと同じクラスになりました。
彼女は演劇部で、バドミントン部と同じ体育館で、練習しており、ステージ上でよく発声練習していました。

高校3年生の時は理系物理系のクラスで女子がいない男子クラスでした。
日本史や英語など記憶系の科目は得意でしたが、国語が苦手だったので、理系にしました。
建築を目指そうと考えたのは、オリジナルなものを自分で考えて、デザイン的なものを創造したいという思いがあったからです。
実家や親せきなどまわりに建設関係者はいません。

自宅から通学でき、学費の安い、国立名古屋工業大学の社会開発工学科を受験し、現役合格しました。
受験練習として、京都の私学である立命館大学土木科(建築科がありませんでした)を、名城大学の校舎で受験し、合格しました。
第一志望の名古屋大学建築科も受験しましたが、不合格となり、浪人して、予備校に通うことは、家庭環境から考えず、名工大に進学しました。
次回に続く。私の大学時代(国立名古屋工業大学)の思い出。