私の大学時代(名古屋工業大学)の思い出
前回ブログの続きです。前回は私の高校時代(県立多治見北高等学校)の思い出です。
<大学入学>
岐阜県立多治見北高等学校を卒業し、国立名古屋工業大学に入学しました。
入学式は大学の隣の鶴舞公園にある、名古屋市公会堂でした。歴史的建築物です。
奨学金をもらいながら、大学へ通学しました。
北高卒で、同じ学科の同級生に、私の他に2人いました。
彼らは1年浪人して入学したので、高校の先輩ですが、面識はありませんでした。
大学では、ほとんど当たり前のことですが、高校までと違い、進学しても、だれか知っている人が同じクラスや学年にいるという状況ではないことになりました。
友達をつくらないと、と思いました。
小学校6年生の時に転校を経験していますが、他にも女の子の転校生がいて、なんと、元の小学校5年生で同じクラスで、転校先でも同じクラスになったのです。
その子のことが好きでもなかったのに、転校早々に、かなり、みんなからひやかされました。
5年生の担任の先生は、中学2年生でも担任になりました。
<通学交通>
高校卒業して、入学までの間に、原付の免許をとり、原付バイクを買ってもらいました。
ホンダのメットインスクーターで、ヘルメットがシート内に格納できました。当時、メットインスクーターが出始めた頃です。
自宅から多治見駅まではスクーターで行き、多治見駅からJR中央本線で鶴舞駅まで電車通学を始めました。
鶴舞駅から大学までは近いので歩きです。
その後しばらくして、自転車を自宅から持っていきました。
1年生の夏休みに自宅近くの大原自動車学校に通い、普通自動車免許をとりました。
スクーターに乗るのは楽しかったです。
バイト先でできた友達と、ツーリングにも行きました。
しかし、大学の2年生の時にスクーターを盗まれてしまいました。
中古の軽自動車(赤い三菱ミニカ)を買ってもらい、自宅から多治見駅近くまで車で通いました。
<授業 教養課程>
建築をやりたくて、大学に入りましたが、名古屋工業大学の学科制度は、入学時は、建築工学・土木工学・都市工学の3つの専攻が一緒になった、社会開発工学科という部に入学し、2年生の前期までは、教養課程で、2年生後期から、3つの専攻に分かれるというシステムでした。
専攻は希望すれば、そのまま入れるわけではなく、成績優秀者に選択権に重きがおかれます。
建築が一番人気だったので、授業に出て単位を取るのはもちろんですが、勉強して、テストの成績が優秀でないと、希望する建築に行けないという可能性もありました。
教養課程の時は、設計製図以外は、授業がつまらなくて、あまり、勉強に熱心な学生ではありませんでした。
大学には毎日通っていましたが、一限目の授業に間に合わず、途中からや二限目から出席なんてこともありました。
工業大学だからと、第二外国語として、ドイツ語が必須科目でしたが、卒業してからドイツ語を使う機会は一度もなかったです。
<授業 専門課程>
2年生後期になり、1年半分の取得単位とその成績の結果、建築専攻に進めることができました。
134人が社会開発工学科に入学し、うち、67人が建築に進みました。
もし、ここで、建築に進めず、土木か都市工学を専攻することになったら、就職先に設計事務所を選ぶことがなかったでしょうから、そうなれば、現在のように、設計事務所を自営しているということはありえず、大きな人生の岐路でした。
以降、まじめに勉強するようになりました。
[設計製図]
設計製図が好きで、楽しかったです。
当時は、パソコンのCADソフトを使って図面を書くという時代になる少し前で、手書きの時代でした。
大学でCADを使ったことはなく、平行定規を使っていました。
最初の頃の製図は、ロットリングペンの使い方の練習や、見本の図面をトレース模写するいう基礎的なことをしました。
名古屋にある大きな古民家の「こふき邸」を見学し、平面図や立面図の図面模写をしました。
アメリカの巨匠建築家のフランク・ロイド・ライトの名作住宅の外観パース(予想図)を、着色模写しました。
ライトは明治村に東京から移築された帝国ホテルを設計しました。
この課題の頃に、明治村に行きました。私の好きな建築家です。
過去ブログ
NHK朝ドラ「半分、青い。」明治村で初デート 帝国ホテル東京に「インペリアル タイムズ」(建築家ライト設計の旧館の常設展示)がオープン 旧館は明治村に移築された名建築「ライト館」
その後、自由設計課題が与えられるようになり、提示された条件にあった建物を自由に設計するようになりました。
ここから、設計の楽しさを実感するようになりました。
敷地が指定される課題もありましたが、自由に考えていい課題もありました。
設計製図の先生として、主に東京から有名な建築家の方々がたくさん、非常勤講師として来ていただき、初めて、建築家という存在を身近に感じ、強い影響を受けました。
以下を2,3年生の時に設計しました。設計タイトルは自分でつけるのです。フォントもデザインして作図します。
当初はコンセプト等の文章や図面中の文字は手書きでしたが、見栄えをよくするために、ワープロを買いました。
当時はパソコンがあまり普及しておらず、他学科はいざ知らず、特に建築学生が持っていることはあまりなかったと思います。
外観パース(完成予想図)や内観パースや模型も求められる課題もありました。
当時の図面(ポートフォリオとしてまとめてあります。就職面接で見せました)やアイデアや設計をまとめるスケッチブックをとってあり、先日、見返しましたが、我ながらすごい情熱をもってとりくんでいたんだなあと思いました。
課題名「住宅」:「吹抜とサンシェードをもつ快適リビング」
課題名「名工大正門前のレストラン」:カフェ&レストラン「PARKLEX」(鶴舞公園)
課題名「名古屋市立博物館」:現代彫刻美術館「MODERN CREATIVE ARTS MUSEUM」(白川公園)
課題名「5mx5mx5mの空間で自由提案」:「POCKET PARK」
課題名「音楽専用野外劇場」:「WHAT A CRUISING」(名古屋港・ガーデンふ頭)
課題名「ホテル」:「光の海へ 六甲山腹に建つホテル」(敷地自由、2回行った神戸を選択)
[ 特別講演会 ]
教室で、著名な建築家を招いて特別講演会が行われることがありました。
女性建築家が珍しかった最初期から活躍する、林雅子さんが東京から来ていらして、作品を解説してくださいました。
[ 建築見学 ]
名古屋市内や周辺の建築見学によく行きましたが、遠方へもよく行きました。
また、後述するように、ユースホステルクラブという旅行クラブに入るほど、旅行が好きで、たびたび行きましたが、旅行先で建築見学もしました。
これについては、別ブログで詳しく書いています。
私の大学時代(国立名古屋工業大学)の思い出 <建築見学旅行>
<研究室時代>
4年生になり、仙田満研究室に所属しました。
同期の6人は仲がよかったです。いつも一緒にいて、ごはんを食べに行ったり、旅行やいろんなところに行きました。
大ヒット恋愛ドラマ 「東京ラブストーリー」を夜にみんなで見ていました。
楽しかったです。
ワープロは3年生まで使っていましたが、研究室に入って、初めてパソコンを使いました。
当時のソフトはワードではなく、一太郎で、エクセルではなく、ロータス1-2-3。
カタリスというテトリスみたいなゲームで戦って、みんな熱中してました。(笑)
[設計コンペ参加]
研究室の同期のみんなで、仙田教授とともに、「第一回読売まちづくり設計コンペ」設計コンペに応募しました。
読売新聞社主催の理想的なリゾート地のまちづくり設計提案をもとめるアイデアコンペ(実際には施工しない)です。
当時は、バブル期で、日本中でリゾート開発が行われていた時代です。
敷地は、千葉県房総半島南部の太平洋側の天津小湊町の広大な山中です。
敷地調査に、研究室のみんなで行きました。
お互いの意見や考えを出しあいながら、設計をまとめ、提出。
見事、入選し、盾と賞金300万円をもらいました。
[卒業研究]
親水空間の研究をしました。
タイトルは「都市における親水空間に関する研究-空間規模とその心理的効果-」
先生の専門は、こどもあそび空間や環境空間建築です。
先生の事務所の名前は「環境デザイン研究所」です。
都市環境・建築環境に深く関係するものとして決まったテーマです。
先輩たちはやったことがなく、参考となる既往の論文や研究や出版物も少ないテーマでした。
先生や環境デザイン研究所の所員の方からアドバイスをもらいながら、研究を進めました。
公園や、建築物まわりにある、湛水(池)、噴水、落水、落水(滝、カスケード)、流水などの様々な水の形態と、人の感情との関係性を探るものです。
たとえば、噴水であれば、どれくらいの高さや幅があると、何%の人が、心に強く響くかということを調べるのです。
現地に行ってきて、写真を撮ったり、採寸したり、形をスケッチしてきます。
その写真をスライドにして、学生を集め、様々な評価尺度でアンケートを行い、集計をし、パソコンでデータ解析をしました。
この研究のために、いろんなところに行って調査をしました。
名古屋市内をはじめ、東京、横浜、鎌倉など83ヶ所。今思えばすごい数です。
市役所や都庁などに行って、親水施設の図面をコピーさせていただくこともしました。
[卒業制作]
「ADRIANA」~水・時・空・人~
親水空間の研究を卒業論文でしたので、そこで知った知識を生かそうと、架空の湖のほとりに、だれもいない静かな「遺跡」をイメージした、様々な形態の水のある空間を設計しました。
タイトルの一部に使ったヴッラ・アドリアーナはローマ郊外にあるローマ帝国ハドリアヌス帝の別荘で、様々な水空間がある遺跡です。
就職してから、イタリア・フランス旅行でローマに行きましたが、残念ながら、ここへはストライキがあり、行けませんでした。
<クラブ活動 ユースホステルクラブ>
1年生の時は、クラブや部活やサークルには入りませんでした。
クラスの友達と遊んだり、地元の友達と遊んだりしましたが、バイトばかりしていて、なんだか、学生生活がつまらないと感じ、2年生からクラブに入ることにしました。
そこで、そんな旅仲間と出会いたいなあと、旅行クラブである、ユースホステルクラブに入りました。
ユースホステルとは全世界や全国の主に観光地にある、主として青少年のための宿泊施設のことです。
ユースホステルクラブでの楽しい思い出は、別ブログで詳しく書いています。
私の大学時代(国立名古屋工業大学)の思い出<クラブ活動 ユースホステルクラブ>旅行
<アルバイト>
学費や交通費やクラブ活動費や旅行費や飲み会費やチケット代や自分のこづかいをかせぐために、家庭教師などたくさんいろんなバイトをしました。
家庭教師はずっとやっていました。
教えたのは小学生高学年、中学生、高校生、浪人生です。
週に2回で、複数人数をかけもちでやることもありました。1日に2組を時間をずらしてダブルヘッダーとか。
長期バイトをしたのは1,2年の頃です。
1年生の時に、回転寿司のアトムボーイ多治見店で、裏方調理や皿洗いをし、社員の休憩時間などにはレーンに入って寿司を握っていました。
ビールサーバーで注いだ生ビールやおしぼりをテーブルに運んだりもしました。
たまに、応援で、中津川店や春日井店に行くこともありました。
バイト仲間の一人に出身中学を聞かれ、「土岐市の西陵中」と答えたところ、高校時代の同級生の友達に西陵中の出身者がたくさんいたとのこと。
だれか、聞いたら、私の友達たちでした。
高校が違い、また、私は高校3年生の時に多治見に引っ越していたので、縁が切れている状態でしたが、これをきっかけに、彼らと再会し、たびたび、一緒に遊ぶようになりました。
毎年の年末年始の年越しパーティーが恒例でした。
結婚式の二次会の幹事を彼らがやってくれて、盛り上げてくれました。
友達の一人が神戸の大学に進学していたので、2回くらい神戸に行きました。
彼の実家が、春日井でレンタルビデオ店を開業し、開業準備手伝いをしたり、開業後に、一時的にバイトしたりしました。
彼らとは、今も友達で、つながっています。
2年生の時に、バロー多治見本店の青果部で、野菜や果物の商品出しをしました。
テントで行う日曜朝市では、野菜販売をしました。
たくさんのお客さんを待たせないよう、レジを使わず、多くの野菜の値段を 覚えておいて、暗算し、お金を受け取り、おつりをすばやく渡す必要があり、大変でした。
3年生になり、製図課題などに時間が必要になってくると、長期バイトをやめて、課題提出後の時間があいた時に、短期バイトをよくしました。
昭和区杁中にあった、学徒援護会に行くと、アルバイトのあっせんをしてくれるので、張り出された求人票を見て、応募するのです。
様々な職種がありました。
引越し(家、事務所)、松坂屋の百貨店イベントの搬入搬出(マネキンを運ぶなど)、レインボーホールの舞台裏など。
当時、建て替え前のNHK名古屋放送局で、スタジオのドラマロケセットを解体するお手伝いのバイトもしました。
アサヒビール名古屋工場で缶ビールの箱詰めをしました。
そういえば、今は千種イオンがある場所には、当時、サッポロビールの工場があって、大学周辺にまで、においが漂っていました。
隣りの浩養園(ビールとジンギスカン)にも行ったなあ。
夏休みに、数週間、可児市の機械工場で深夜バイトをし、夕方行って、朝帰ってくるという、昼夜逆転生活をしました。
春休みに、友達から、「一番人気の仙田満研究室に入りたいなら、東京の先生の事務所「環境デザイン研究所」でバイト志願したほうがいいぞ」と聞き、友達3人で行き、2週間くらいバイトしました。(結果、その3人とも入れました)
港区麻布十番にあり、 ベンツのショールームの上の階でした。
近くに銭湯があり、寝るのは事務所の本棚と本棚の間です。
主に、模型を作ったり、買い出しに行ったりしました。
私にとって、初めての設計事務所でのバイトで、刺激的でした。
4年生になり、仙田研究室に入り、 研究室のみんなで設計コンペに参加したり、卒業研究や卒業制作など、ますます忙しくなってくると、アルバイトをする時間がなくなってきて、家庭教師だけをしていました。
3,4年生の忙しい頃は、自宅に帰らず、学校に住んでたみたいなものです。製図室や研究室で寝袋で寝ていました。
帰るのは、週に2回(ダブルヘッダーをして1日に2組)、家庭教師をやるためと着替えを持って帰るためくらいでした。
時間的な余裕ができると、研究室の友達と、東京の環境デザイン研究所へバイトにたびたび行ってました。
<音楽ライフ>
1年生の時は、J-POPのアーティストのコンサートによく行ってました。
過去ブログ
私の音楽人生2<中学生前半~大学1年生>洋楽・J-POP・アニメ音楽・アイドル音楽・ニューミュージック
2年生から、ロック系、パンクロック系、ビジュアル系のバンドの大好きな、高校時代からの友達の影響を強く受け、しょっちゅう、大須のE.L.Lなどへライブやコンサートにしょっちゅう、一緒に行ってました。
過去ブログ
私の音楽人生3<大学2年生~就職3年目頃>ライブハウス・コンサート通い・「イカ天」・ロック・J-POP・沖縄音楽・ディスコ音楽・フォーク
<就職活動>
当時、バブル時代の末期頃で、学生にとって、超売り手市場でした。
名工大からは、スーパーゼネコン(総合建設会社)の大手五社(清水建設、竹中工務店、鹿島建設、大成建設、大林組)や全国規模の大手設計事務所(日建設計、山下設計など)には、各々複数名が就職した時代です。
バブルがいつまでも続くような錯覚がありました。
入社して設計をしたかったのですが、就職先は当初より、ゼネコンの設計部は考えず、設計事務所を考えていました。
ゼネコンの場合、もし、将来、会社都合などで、設計以外の部署に配属されてしまうかもしれないと考えたのです。
次に、大手設計事務所に行くか、中規模設計事務所に行くか、建築家先生のアトリエ設計事務所に行くか、なやんでいました。
将来、建築家をめざすか、どうかという岐路だったのです。
建築家へのあこがれがありましたが、「果たして本当になれるのか?」、当時、インターネット検索という方法がなく、限られた情報しかなく、よくわからなかったのです。
一番最初に面接を受けたのは全国組織の大手設計事務所の2社です。
1社は名古屋支社があり、そこで面接を受け、内定をもらいました。
もう1社は名古屋支社がなく、大阪支社があり、面接に行き、内定をもらいました。
しかし、大きな設計事務所ほど、設計する建物は大きい傾向があり、入社しても、数年は、1物件をメイン担当者として、まかせてもらえるように思えませんでした。早いうちから、メイン担当にしてもらって、ひととおり、自分で設計できるように、なりたかったのです。
名古屋の建築家先生のアトリエ設計事務所も面接を受けました。
しかし、給料が安く、奨学金を返しながら、働くことができるのかとか、ハードな仕事で多治見から通うことができないようになり、名古屋に住む必要があるとなれば、もっと金銭的に難しいと思いました。
大学の図書館で設計事務所どこがいいか調べていました。
「新建築」という建築界の一番有名な建築雑誌に、名古屋の青島設計の作品がよく掲載されていました。
青島設計では、全国的に見れば、中規模事務所ですが、名古屋本社の設計事務所としては、一番大きい設計事務所で当時、100人くらい所員がいました。
中規模事務所なら、早いうちから、メイン設計担当させてもらえるかもしれないと思いました。
また、給料もアトリエ事務所よりはもらえるから、奨学金も返せるし、ゆとりある青春時代も送れそうに思いました。
将来、独立するなら、全く縁のない東京や大阪ではなく、名古屋かその近郊だろうなと考えていました。
長男だから、将来は、親のめんどうをみなけりゃいけないだろうなというのもありました。
それには、名古屋でいろんな人の縁を作ったほうがいいと思いました。
自宅の多治見では、東濃地方全部あわせても、人口が少なく、建設需要も小さく、富裕層が少なく、また、建築家に依頼するという文化や考えや概念がなさそうだと思い、開業は無理だと思っていました。
そこで、青島設計の名古屋本社で面接を受け、内定をもらい、入社することを決めました。
<大学卒業>
無事に、留年することなく、大学を卒業しました。
大学院に進学する同級生もいましたが、弟や妹がいるので、お金のかかる進学は考えませんでした。
弟も、私と同じ高校に進学し、浪人後に、自宅通学できる公立大学に合格して卒業しました。
妹は地元の私立高校に進学し、自宅通学できる短大を卒業し、就職したものの、やりたいことと違うことに気づき、退社し、専門学校に進学し、その後、再就職しました。
中学の先生と私たち三兄弟を育ててくれた、両親に感謝です。
就職後については過去ブログ 以降連載ブログになっています。
名古屋・大須の思い出 学生時代・設計事務所勤務時代・独立後の最初の住宅設計の地
次回ブログに続く。私の大学時代(国立名古屋工業大学)の思い出 <建築見学旅行>





