岡崎・圓福寺(元・妙心寺) 参詣1 満開の桜・浄土宗深草派の大本山・京都のお寺との寺号交換・松平家・天皇家ゆかり
前回のブログで、有名な「奥山田のしだれ桜」(岡崎市奥山田町 北斗台団地の奥)を見たことを書きました。
帰る途中に、うちの事務所の近くの圓福寺(えんぷくじ)で、桜がきれいに咲いていたので、参詣しました。
足助街道(県道岡崎足助線(バス通り)と国道248号との間にあり、カー用品店ジェームスや岩津天満宮(岩津天神)の近くです。
岡崎市岩津町字檀ノ上85
以前から、ジェームス北の道路際に、お寺の立派な門柱が2本立っていることは知っていたのですが、参詣したことはありませんでした。門柱まわりの塀を左官職人さんが改修工事していました。
総門には、徳川家ゆかりを示す葵紋と、左甚五郎・作の鯉があります。
全国的にも、実は、すごいお寺で、浄土宗の西山深草派(せいざんふかくさは)の大本山なのです。
このお寺は、岡崎観光きらり百選です。円福寺と書いてありますが、正しくは圓福寺。
岡崎にある、大本山はこのお寺だけではないでしょうか。
こちらのホームページ 圓福寺の歴史 を見るとよくわかります。
旧名は妙心寺であり、徳川家の先祖、松平家の三代・松平信光が、1461年に創建しました。
ちなみに、松平信光が創建した、近くの信光明寺には、国の重要文化財の観音堂があり、先日、梅の花咲く、岩津天満宮(岩津天神)とともに、参詣しました。
信光は、多数の松平庶家を分出した、岩津松平家の祖でもあります。
以下は過去ブログ。
岡崎・岩津天満宮に参詣1 満開の梅 6回連載の1回目
岡崎・信光明寺に参詣1 岩津天満宮のルーツ 3回連載の1回目
現在の寺名は圓福寺であり、これには深いわけがあります。
住職に本堂内を拝見させてもらった時に、お話をお聞いたことも補足しています。
圓福寺は、もとは後深草天皇の勅願により、京都の深草(伏見稲荷大社近く)で真宗院(しんじゅいん)を建立したことに始まります。
その後、火災により、四条大宮(二条城の南)近くの猪熊綾小路に移転し、花園天皇より圓福寺の寺号と勅願所の綸旨と荘園を賜りました。
勅願所とは、天皇が祈願する寺のことです。
そのゆかりの石柱がこちらです。「勅願道場」とあります。
豊臣秀吉が天下をとると、その命により、洛中に散在していた多くの寺を一か所にまとめて、現在の四条河原町の新京極(修学旅行でも行きましたし、昨年も行きました)付近に移転されました。
なので、この周辺はお寺密集地帯です。
その後、明治時代に区画整理により、このあたりの寺域の大部分が没収されてしまい、廃寺になりそうなところを、1883年、この岩津の地にあった、妙心寺と寺号交換により、ここが、浄土宗西山深草派の大本山となり、圓福寺と名前を変えることになったのです。
妙心寺は檀林(だんりん)つまり僧侶養成所として三河地方の深草派を統合してきました。
いわば本山に準ずる寺院でしたから、円福寺が移転するにふさわしい環境でした。
一方、京都にあった圓福寺は、永福寺「蛸薬師堂」 (浄土宗西山深草派)の境内に、仮本堂を建て、法性山無量寿院 妙心寺と名前を変えました。永福寺は圓福寺の子院でした。
ちなみに、京都右京区花園にある、多数の塔頭をもつ、大寺院である妙心寺とは関係ありません。
大寺院のほうの妙心寺は、全国の臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺である、妙心寺派の大本山です。
下の写真は、昨年行った、京都のお土産屋さんなどが多い繁華街の新京極通り(アーケード街)から見た、永福寺「蛸薬師堂」の入り口です。
永福寺の奥に、妙心寺がありますが、行った時は、こういういきさつを知らなかったので、残念ながら、参詣しませんでした。
岡崎岩津の妙心寺にあった、葵紋のある鐘や、松平信光公の遺髪が納められた、美しいご本尊の仏像も移設されているそうです。両寺を参詣した方のブログ。
圓福寺の写真に戻ります。右端に「勅願道場」の石柱があります。
総門をくぐった正面に鐘楼があるのは、変わっていると思いました。
右のほうに桜が見えたので、行ってみると、きれいな赤い桜が咲いていました。
若一神社(にゃくいちじんじゃ)の末社です。本殿内に白狐(びゃっこ)のいるお稲荷さん。
若一神社は、岡崎市役所岩津支所近くの国道248号沿いにあります。岩津町字壇ノ上23番地