Blog / KANO空感設計 あすまい空感日記・・・明日の私(MY)の住まい

岡崎と大友皇子5 小針1号古墳(皇子の御陵説)(小針町)

前回ブログの続きです。前回は「岡崎と大友皇子4 大友皇子御陵遺跡(東大友町)」
岡崎市大友から少し北のほうに、小針1号古墳があり、大友皇子の御陵説があります。

もとは、前方後円墳ですが、削られて円墳になっています。

案内板
 「このあたり一帯は往時大小14基の古墳があって壮観を呈していたが、明治以降開墾のため破壊され、この柵内の小高い円丘、俗称大塚のみが原型を保っている。もとは前方後円墳で、周囲には円筒埴輪が巡らされていたが、今は後円部のみが現存している。
 この古墳は往古から大友皇子の塚だという伝説がある。すなわち今を去る壱千参百年前の昔、天智天皇の崩御後、皇太子大友皇子が近江の大津宮で政治をとったが、天皇の弟大海人(おおあま)皇子(第四十代天武天皇)が吉野で挙兵し、近江を攻め、大津宮は兵火にあって焼け落ち、大友皇子は敗れて自害した。(西紀六七二年、御歳25才)。これを壬申の乱とよぶ。(日本書紀)。
 しかるに西大友町に鎮座する大友神社の「社志」によると
 「大友皇子は自害したといいふらして、ひそかに一族の者数名と三河にのがれ、大海人皇子の謀反を怨み悲憤に暮れたが、ついにこの地で崩じ、小針字神田に葬られた。従者長谷部信次が神社を創建し皇子を祭祀した。これが大友神社である。大友という村名もこれに起因する」
という由緒がある。
 この塚は現在小針町字城跡一二三番地 市川金平氏の所有で、同家で先祖代々鄭重に守護し来っている。
なお大友皇子は明治三年に弘文天皇と贈り名され、御陵は大津市に建てられている。
    昭和四十六年十二月
           名古屋菱重興産株式会社 建之

大友皇子の姉である、女帝の持統天皇は、岡崎に三河行幸で訪れています。
ともに、天智天皇の子です。
次回に続く。「岡崎と持統天皇 奥山田のしだれ桜を植え、村積山「花園山」命名した女帝」