Blog / KANO空感設計 あすまい空感日記・・・明日の私(MY)の住まい

知立・八橋かきつばた園(無量寿寺庭園)2 八橋売茶翁・煎茶道賣茶流

前回ブログの続きです。
知立市の八橋かきつばた園在原業平像の周辺の複数の池はほとんど、数株を除いて、花が終わっていました。
やっぱり来るのが、遅かったかと思いながら、森を抜けて、無量寿寺の本堂のほうに近づいていきました。
すると、なんと、16ある池のうち、1つの池「心字池」だけに、なぜかたくさん咲いてました。

無量寿寺は、704年に現在の豊田市駒場町(八橋町の西隣の町)で慶雲寺として創建され、821年にこの地に移転し、無量寺となりました。(その後、無量寿寺に)
平安時代には、八橋には京都から鎌倉へつながる、鎌倉街道が通っており、在原業平が八橋を訪れた時に詠んだ和歌「かきつばた」によって、伊勢物語ゆかりの地として、全国的に有名になりました。

五千円札に描かれたかきつばたは、当地がモデルです。
花札の5月の10点札「菖蒲と八ツ橋」(「かきつばたに八ツ橋」とも)は、当地がモデルです。

八橋の地名は、逢妻川に架けられた八つの板を互い違いに掛けた橋が由来です。
八橋の地名のおこり 知立市ホームページ

京都銘菓の八ツ橋の名は、この橋からとっているという説があります。
八ツ橋の販売を始めたのが1689年で、日本最古という本家西尾八ッ橋のホームページを見ると、「現在の八ッ橋の原型となる、 橋の形をした素朴なおせんべいが誕生しました。」とあります。西尾八ッ橋の歴史
包装紙に、八橋のかきつばたを使っています。
これについては、さらに、別ブログへ。かきつばたで有名な知立の「八橋」と、京都銘菓「八ツ橋」の関係
  
しかし、江戸時代には、八橋は、業平の平安時代と異なり、かきつばたも橋もなくなってしまいました。

1812年に、八橋の業平塚を守る在原寺を再興した方厳(ほうがん)和尚を迎え、再興しました。
方厳は、八橋売茶翁(ばいさおう)とか、方厳売茶翁と呼ばれています。
福岡に生まれ、京都で、高遊外売茶翁(初代売茶翁)に感銘を受け、江戸で煎茶を売りながら、遊説し、煎茶道賣茶流を広めました。
江戸を出て、東海道を旅する途中、八橋の荒廃ぶりに落胆し、在原寺を再興し住職となったのが、この地とのつながりのきっかけです。その後、無量寺の住職となり、この寺で没しました。
無量寿寺と名を変えました。
煎茶道賣茶流 公式サイト 
煎茶道賣茶流は家元が、大正初年に名古屋市昭和区村雲町の浄元寺に移って以降、その寺が道場となっています。
浄元寺境内にある友仙窟には、二人の流祖や歴代家元や当流物故者をまつる祖堂である売茶堂や2つの茶室(清泉の間、友仙の間)があります。


正面の中の島に三尊石があります。

三尊石は、茂みの中にあり、よくわかりませんでした。

業平の石碑

その時代に、煎茶式庭園として整備され、かきつばたが移植されました。
こうして、八橋でかきつばたが現在も見られるのも、方厳のおかげです。

 

八橋売茶翁については、こちらのサイトが詳しいです。
煎茶文化のふるさと八橋 八橋(方巌)売茶翁 公益財団法人 愛知県教育文化振興会

方厳井戸

紀州藩代第10代藩主の徳川治宝から贈られた一対の辻灯篭

↓右下の長方形の石は、煎茶式庭園玉川庭玉川卓です。

もう1つの辻灯篭は心字池をはさんだ反対にあります。

業平の井

次回に続く。茶室「燕子庵」・茶道和室の設計事例