西尾市吉良町の建築物見学 その1 吉良家の菩提寺「華蔵寺」
住宅設計の敷地調査で西尾市へ。市役所へも行きました。
その後、吉良町へ。吉良町といえば、忠臣蔵で有名な吉良上野介義央(よしひさ)公です。
吉良家の菩提寺の「華蔵寺」に参拝しました。
芝居やドラマ等では、悪役にされてしまっていますが、非常に残念なことであり、実際には、治水事業として黄金堤を築いたり、領民思いの名君であり、地元では、「吉良さん」と呼ばれ、尊敬の念が強く、慕われています。
それを強く感じるのは、境内にある石碑や赤馬会館です。のちほど説明します。
駐車場では、馬上の吉良さんが出迎えてくれます。
石段を登ったところに、棟門があります。
棟門としては、変わっていて、むくり屋根になっています。
石碑には、名君であった、義央公を暗殺未遂した浅野家の家臣を忠臣としたのでは、武士道に反するし、芝居にならないので、当時の劇作家たちが、義央公を悪人に仕立てあげたと書かれています。
また、イザコザを殺戮で解決しようとするのは恥ずべきことであり、敵討ちは殺伐とした世の中になると、忠臣蔵を批判しています。
現在では、恩讐をのりこえて、兵庫県赤穂市との交流が深まっていて、喜ばしいことです。
御影堂には、義央公自身の木造があり、自ら彩色しました。非公開です。
御影堂の脇には、吉良家代々の墓や討ち入り時に亡くなった藩士の碑があり、一番手前に、吉良義央の墓があります。

吉良家は、江戸時代に高家筆頭と呼ばれ、格式の非常に高い名家です。
高家とは朝廷関連の幕府の儀式や交渉をする役職であり、高家3家の中で一番ということです。
朝廷からは、従四位上という、高い位階をいただいていました。
4600石の旗本なのに、大大名の島津家、伊達家と同列であり、毛利家や細川家よりも位が高かったのです。徳川御三家と加賀百万石大名の前田家は従三位です。
それには理由があります。足利家や徳川家や上杉家と深い関係があるからです。
足利家は、承久の乱で功績があり、鎌倉時代に三河を領地にした時に、足利家から分家(といっても足利本家は二男の家系。その後、尊氏が幕府を創る)したのが、吉良家(足利 長男の家系)なのです。
吉良は地名であり、八ツ面山から雲母(別名きらら)という鉱物が採れることが由来です。
和紙に漉き込むと、キラキラと輝くのです。
その地名をとって、苗字を変えました。
そこからさらに分家したのが、今川家であり、西尾市今川町が発祥地です。
「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われ、将軍職を継ぐことのできる家系だったのです。
今川家は織田信長との桶狭間の戦いで敗れて没落し、吉良家も今川家傘下(下剋上の世の中で立場逆転していました)だったので、没落します。
しかし、その後、徳川家康公の祖父である松平清康の娘が吉良家に嫁ぎ、徳川家との関係を深め、幕府は吉良家を重視していくのです。
義央公の正室は上杉家の娘です。
経蔵は、義央公が建立した唯一の建物です。
赤馬会館
赤馬は、吉良町の郷土玩具で、赤馬の置物がいっぱい並んでいます。
義央公は、自ら農耕馬である赤毛の馬に乗り領内視察をしました。
領民はこれを称えいつしか赤馬と呼ぶようになりました。
この赤馬の人形を領内の村に住んでいた村人が江戸・天保年間に子どもの玩具として作ったのが始まりです。
吉良家ゆかりの品も展示されています。
数年前には「吉良さん300年祭」が開催され、赤穂市の「忠臣蔵300年祭」のポスターが並んで張ってありました。
次回は、近くの「花岳寺」です。東条吉良家菩提寺です。本堂が国の登録有形文化財です。















