Blog / KANO空感設計 あすまい空感日記・・・明日の私(MY)の住まい

液状化対策の地盤補強工法8 液状化しやすい元海・元干拓地・元新田・元干潟・元低湿地・元塩田

前回のブログの続きです。
江戸時代初期に、徳川家康により、西尾市八ツ面山近くで、西へ大きく流れを人工的に変えられた矢作川の新たな河口では、大量の土砂が上流から堆積し、江戸時代以降に海を干拓して新田開発が進みました。
こうした、元海・元干拓地・元新田・元干潟・元低湿地・元塩田は液状化しやすいです。

吉良町で12、一色町で24、西尾市で9、碧南市で5ヶ所の新田が開発されました。
 

碧南市の前浜新田は、1854年の安政東海・南海地震により、地盤が二尺(約60cm)以上沈下し、津波も襲来したとされています。また1891年の濃尾地震でも、地盤沈下が発生しています。

三河湾沿岸部には、かつて遠浅の浜を利用した、塩田が数多くありました。
西尾市旧吉良町には、塩田体験館 吉良饗庭塩の里・吉良歴史民俗資料館があり、行ったことがあります。
下図は吉良歴史民俗資料館で見た、塩田マップ。

吉良歴史民俗資料館の周辺を拡大。
三河の塩田で作られた塩は、地元愛知県では、岡崎の八丁味噌の原料や知多のたまり製造にも使われていました。
塩が、信州まで運ばれるルートの途中にあり栄えたのが、古い町並みの残る豊田市足助町です。
矢作川を船で遡航して、岡崎の塩問屋で荷揚げされ、足助街道(ほぼ県道39号岡崎足助線)を通り、中馬街道(別名 塩の道)に。
足助の塩問屋で、瀬戸内産の塩と合わされて、「足助塩」や「足助直し」として、伊那に運ばれました。足助見学記のブログ

東三河では、豊橋や田原などに新田や干拓地が多いです。豊川河口の新田開発の図。
豊橋の神野新田は、前回ブログで書いた、幸田町の菱池干拓による新田開発を行った、愛西市出身の神野金之助(かみの きんのすけ) (初代・重幸)が再開発をしました。
その工事の際、左官・土木技術者である碧南の服部長七が考案した、人造石である「長七たたき」で、堅固な堤防が築かれました。
長七たたきは明治用水頭首工でも使われており、明治用水会館隣の「水のかんきょう学習館」に、「長七たたき」の実物展示があります。過去の見学記ブログ
服部長七は晩年、岡崎の岩津天満宮(岩津天神)に暮らしていましたが、天満宮の焼失から再建した功績で、東山梅園に服部長七翁顕彰碑が建てられ、名誉岡崎市民になっています。岩津天満宮の参詣記のブログ
「長七たたき」の実物モデルも脇にあります。
  

名古屋以西は、海抜0メートルやそれに近く、元は海だったと伝わっている古地図が多くあります。
海抜ゼロメートル地帯が広い都道府県の1位は、愛知県です。 
こうした、元は海の干拓地域では、1959年(昭和34年) 明治維新以来、日本で最大の被害を出した台風である、伊勢湾台風で、大規模に浸水し、甚大な被害を出しました。
全国に大きな被害を出しましたが、特に、愛知県で3,351人(うち名古屋市1,909人)、三重県1,211人と多くの死者が出ています。
愛知県では、名古屋以西の尾張の沿岸以外にも奥(北)へ広範囲に、知多半島の沿岸、衣浦沿岸、西三河の三河湾沿岸、東三河の豊橋などの三河湾沿岸です。
 

島にちなんだ地名が、今に多く残ります。
愛知県の津島や枇杷島、中島郡、三重県の長島など。
知多半島の付け根の衣浦湾が日進市赤池の手前まで、大きく内陸部に入っています。
地名について、次回に続く

 

液状化対策の地盤補強工法7 矢作川下流の流れを西へ大きく変える大工事・矢作新川の開削・旧河道となった矢作川本流の弓取川

前回のブログの続きです。
矢作川は、今とは川の流れが、かつては大きく違っていました。
 国土交通省 矢作川 治水の歴史 
特に下流は人工的に大きく変えられました。

徳川家康が岡崎城主の田中吉政に命じて、1605年に矢作川の本流を、西尾市の八ツ面山(展望台があり、行ったことあります)の近く志貴野町から、西に付替えました。
当時、矢作新川と呼ばれ、安城市と西尾市のさかいの台地を掘削して、碧南市の三河湾まで流れるように変えました。
現・矢作川です。
油ヶ淵は、碧南市と安城市の境に位置する愛知県唯一の天然湖沼ですが、元は、海で入り江(湾)でした。
周囲が大きく埋め立てられて、現在は汽水湖(海水と淡水が混じる)となっています。

下図のように、矢作川は、その付け替え工事をする前は、かつては、下流では弓取川の名で流れていました。
ほとんどなくなっているので「幻の大河」と呼ばれています。
   

下図で、上が二ヶ崎川。小島町城山付近から始まる川
下が弓取川
 
現在の古川用水が、弓取川の名残りです。
西尾中学校(西尾市役所近くの南東)や一色高校は、この弓取川の跡(旧河道)に建てられています。
一色高校付近が河口付近です。
紫が現在の矢作古川で、薄青が弓取川だった流路(旧河道)です。
 

 現在の矢作古川の寄近・小焼野の町境付近で、西へ流れていました。

上流から追うと、弓取川は左岸が細池町、須脇町、斉藤町、市子町、八ヶ尻町、一色町、右岸が今川町、川口町、熱池町、上・下道目記町、行用町、一色町になります。当時の河口は一色町の開正・赤羽両地区の境で、起点部である寄近―小焼野の河川敷の幅が約90㍍だったのに対し、河口部の行用―八ヶ尻は約200㍍だったそうです。
弓取川の名前については、矢作川の「矢」に呼応して「弓」を使ったそうです。
参考サイト
【弓取川①】矢作本流だった幻の大河 
【弓取川②】流路を追ってみた
 
矢作新川の工事をしたあと、1646年に新田開発のために、弓取川をせきとめ、安藤川と広田川をまとめたのが、矢作古川です。
現在の本流である、矢作川(以前の名では矢作新川)よりも、実は新しいのです。
矢作川の付け替えにより、河口付近では、上流から流れてくる大量の砂が堆積し、その地形を利用して、新田開発がさかんに行われてきました。
次回に続く

液状化対策の地盤補強工法6 液状化しやすい水害実績地・巨大な元池(幸田町の菱池・岡崎市の妙覚池)・矢作川、乙川の破堤・豪雨での岡崎市、幸田町の大規模な浸水被害

前回のブログの続きです。
過去に水害のあった土地は、液状化の可能性が高いです。
前回ブログで書いたように、川の流れは人工的に変えられてきたので、人工の技術力を超える災害があった場合は、自然の力の流れにまかせるがまま、河川の決壊や破堤が繰り返されてきました。

矢作川流域は、昔は水害常襲地域で、比較的近年である1789年~1903年の約100年間で18回破堤しています。
それ以前には、もっとあったと思われます。
濃尾地震の際に、中之郷から六名に至る矢作川の堤防に亀裂が入り、安藤川堤防を始め各所に小欠損が発生しています。
近年、水害にあった土地自然に池ができるような低い土地は、大昔から過去にもなんども水害にあっていると思われます。
そして、川からの大量の砂が堆積してきたはずです。

入り江の埋め立ても人工的な改変です。
下図にある、幸田町の巨大な「菱池」は、1883(明治 16)年に干拓して埋め立てられて、新田開発が行われました。

沼の底土はヘドロであり、何回埋め立てても地盤が沈下し、堤防も崩壊するという状況が続きましたが、水車を使って水を抜くことに力を尽くし、約二年の歳月をかけて竣工し、東西5.4km、南北1.8kmの約50hrの広大な菱池新田が実現しました。
菱池は、油ヶ淵(碧南市と安城市の間)よりもかなり大きな池でした。
現在、内陸部にある、油ヶ淵元は海の入り江(小さな湾)であり、周囲が埋め立てられ、現在の大きさになったものです。

菱池干拓以前は広田川の調整池としての機能をもっていました。
現在もその地名が「菱池」や「新田」として残っています。菱池干拓 
JR幸田駅の北あたりです。
菱池干拓記念碑があり、菱池神社は 菱池干拓の功労者を祀ります。

豊橋の沿岸部の有名な干拓地である、神野新田(じんのしんでん 旧・毛利新田)を再開発した愛西市出身の実業家、神野金之助(かみの きんのすけ) (初代・重幸)は菱池の干拓事業も行っています。菱池干拓のほうが先です。
神野新田には、神野新田資料館があります。
  
岡崎にも東海道線西岡崎駅付近に、妙覚池という巨大な池がありましたが、1649年に埋め立てられました。
矢作川が,岡崎平野を幾筋にも分かれて乱流してきた時代には,その流れが妙覚池にも入り,大水の時の自然調整池としての役目を担っていました。
岡崎市上佐々木町・下佐々木町は矢作(やはぎ)川右岸にありますが、妙覚池に臨む地形にちなんで佐崎・狭崎と称し、のち表記を改めたといいます。石工団地や三河一向一揆の三ヶ寺である上宮寺のあるあたりです。


<平成20年8月末豪雨での岡崎市、幸田町の大規模な浸水被害>
2008年の「平成20年8月末豪雨」は、岡崎で伊賀川など9河川が氾濫し、死者も出した、大きな被害を出した水害を引き起こしました。
その時、「菱池」のかなり広い範囲が、広田川の決壊により、冠水し、床下浸水64戸、床上浸水55戸の被害がでました。

岡崎市では8月29日の1時から2時までの1時間の雨量が8月の観測史上1位を更新する146.5ミリに達したのをはじめ、1時間雨量の記録を更新した地点が21ヶ所を数えました。平年の8月1ヶ月分の降水量を上回りました。
全市民に避難勧告が出、自衛隊派遣要請もされました。
岡崎市は広範囲で浸水被害がでました。
岡崎市内の被害は、三河橋崩落、建物の全壊4棟、半壊1棟、また床上浸水890棟、床下浸水1,610棟で、全体で2,500棟。
岡崎市のホームページで町別の被害状況がわかります。岡崎市内の町別 床上・床下浸水件数
これを見ると被害の大きい町(100件以上を記載)は、氾濫した伊賀川沿いの伊賀町286件、稲熊町248件、大平町129件、久後崎町116件、福岡町123件、明大寺町117件、元能見町132件、若松町122件あります。
六名は各町名ごとだと、100件以下ですが、「六名」と付く地名の町全体では250件と大きな被害です。
久後崎町は 1882年乙川が決壊した「久後切れ」のある町です。旧乙川流路の付け替え部あたり。
過去ブログ
液状化対策の地盤補強工法5 液状化しやすい元川(旧河道)・元堀
 
岡崎市のホームページで浸水実績図が見られます。平成20年8月末豪雨編と2000年の東海豪雨編の2つがあります。
次回に続く。  
 
 
 
  

 

 

 

 

 

1 159 160 161 162 163 1,093