Blog / KANO空感設計 あすまい空感日記・・・明日の私(MY)の住まい

NHK朝ドラ「半分、青い。」明治村で初デート 帝国ホテル東京に「インペリアル タイムズ」(建築家ライト設計の旧館の常設展示)がオープン 旧館は明治村に移築された名建築「ライト館」

NHK朝ドラ「半分、青い。」で今日は、ヒロインの鈴愛が初デートで明治村に行きましたね。
犬山市の明治村に何度か行ったことがありますが、明治村といえば、帝国ホテルというイメージがあるほど好きな建築です。
「通る家/岡崎」のお施主様のご要望である、「レトロモダン」の参考にするため、犬山市の明治村に行ったのが一番最近です。
過去ブログ。5回連載の1回目。
明治村見学 その1 5丁目 

アメリカの巨匠建築家のフランク・ロイド・ライトが設計しました。
日本建築や日本文化の影響を強く受けており、低く抑えたプロポーション、有機的で古代文明を想起させるような独特なディテールデザインが特徴的です。名古屋工業大学の授業で、ライト設計の住宅の模写をしました。
 


東京日比谷の帝国ホテル東京の1階ロビー内に、ライトの生誕150周年を記念して、「インペリアル タイムズ」という旧ライト館の常設展示コーナーがオープンしました。
旧ライト館の特殊なタイルの製造にかかわったのは、旧INAX、現在のLIXIL(リクシル)です。
リクシルは、常滑市に本社のあったタイルや便器等衛生機器製造のINAXを含む5社が合併した、業界最大規模の巨大建材・設備メーカーです。
  
オープンを伝えるリクシルの記事「帝国ホテルの「インペリアル タイムズ」を支える「LIXILものづくり工房」の仕事が、以下の3ページにわたってあります。
  「LIXILものづくり工房」の仕事帝国ホテル旧本館「ライト館」 
復原のなかに、未来を拓く
帝国ホテル 東京 「インペリアル タイムズ」がオープン

旧帝国ホテルの図面や模型など見られます。
ライト館の意匠が残るメインバー「オールドインペリアルバー」ではオリジナルカクテルが供されています。
東京、大阪、上高地(長野)の帝国ホテルは、上高地以外は、外観しか見たことがないですので、いつか行ってみたいと思います。
 
近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトが設計した建築物15選! から以下、旧帝国ホテルについて転載。
1914年(大正3年)頃から、当時の総支配人だった林愛作は旧知のアメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトと新館設計の相談を重ね、1916年(大正5年)に契約を結んだ。翌1917年(大正6年)にライトは来日し、1919年(大正8年)9月、着工した。ライトは使用する石材から調度品に使う木材の選定に至るまで、徹底した管理体制でこれに臨んだ。
鷲が翼を広げたような巨大なホテルは、10のブロックをエキスパンションジョイントで繋ぎ合わせた構造になっており、これで建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊があっても全体には累を及ぼさない仕組みになっていた。また大規模ホテルとしては世界で初めて全館にスチーム暖房を採用するなど、耐震防火に配慮した設計だった。
しかしこうした完璧主義は大幅な予算オーバーを引き起こした。ライトはそれでも林との個人的な友情でかろうじて施工の総指揮を続けていたが、1922年(大正11年)4月、隣接する初代帝国ホテルが失火から全焼すると、新館の早期完成は経営上の急務となり、設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は避けられなくなった。さらに当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がるに至って、林は総支配人を引責辞任、ライトも精魂注いだこのホテルの完成を見ることなく離日した(同年7月)。一部完成済みの部分を利用してホテルは営業を再開した。
ホテルの建設はライトの日本における一番弟子だった遠藤新の指揮のもと、その後も続けられた。1年後の1923年(大正12年)7月、着工以来4年の歳月を経てライトの本館は完成した。9月1日に落成記念披露宴が開かれることになったが、関東大震災が東京を襲ったのは、まさに宴の準備に大忙しの時だった。周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりする中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていたライトの帝国ホテルはひときわ人々の目を引いた。ライトは二週間後このことを遠藤からの手紙で知り狂喜したという。
1945年(昭和20年)3月10 – 11日の東京大空襲では、本館中央部から南翼、孔雀の間、演芸場などに多くの焼夷弾が落ち、焼失は総床面積の四割強に及ぶ大きな被害を受けた。終戦ともに帝国ホテルはGHQに接収され、そこで大規模な修復工事が行われ、復旧した。
占領が終わって日本を訪れる外国人が再び増え始めたことにともない、1954年(昭和29年)にはライトの本館の裏手(現在インペリアル・タワーが建っている敷地)に客室数170の第一新館が完成、1958年(昭和33年)にはその横に地上10階、地下5階、客室数450の第二新館が完成した。これをうけて、1964年(昭和39年)にはライトの本館を取り壊し、その跡地に新たに鉄筋コンクリート造、地上17階、地下3階、客室数772の新本館を建設することが発表された。
震災にも空襲にも耐えたこのホテルの存続を訴える大規模な反対運動が起ったが、本館は地盤沈下などの影響で柱が傾き雨漏りがするといった老朽化の問題もさることながら、都心の一等地を占有する巨大な建造物の客室数がたったの270では話にならなかった。
ライトの新館は1967年(昭和42年)に閉鎖され、翌年春頃までに取り壊された。跡地に建設された近代的外観の新本館は、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開会に合せて、同年に竣工した。
「ライト設計の帝国ホテル本館」は、「ライト館」として、人々の想い出の中に生き続けることになった。ライト館の玄関部分は博物館明治村(愛知県犬山市)に十数年の歳月をかけて移築再建され、今日でも在りし日の面影を偲ぶことができる。また、東武ワールドスクウェア(栃木県日光市)では実寸比25分の1のミニチュアで在りし日のライト館全景を再現している。2005年(平成17年)4月、新本館14階の「インペリアルフロア」に新設された「フランク・ロイド・ライト・スイート」は、ライト館のさまざまな箇所に施された独特なマヤ調の意匠やライト独自のスタイルでまとめられた内装や調度品を忠実に再現したものとなっている。

次回に続く

 

岡崎・浄慶寺  上宮寺の隣りで同じ真宗大谷派の寺・きれいな花イキシア(槍水仙)

前回ブログの続きです。
上宮寺の道路をはさんで隣に建つ、浄慶寺(じょうきょうじ)へ。岡崎市上佐々木町字梅ノ木33
上宮寺と同じ真宗大谷派(京都の東本願寺が総本山)なので、中本山として多くの末寺があった上宮寺の末寺だろうか。
山門前の花 イキシア(槍水仙)がきれいです。


山門は薬医門。

本堂

本堂の両脇の大きなツツジがきれいでした。

岡崎石工団地隣の上宮寺に参詣 聖徳太子創建・三河一向一揆の三河三ヶ寺・浄土真宗の中本山・現代建築デザイン

前回ブログの続きです。
今週末の土日に、団吉くんまつりがおこなわれる、岡崎市上佐々木町の岡崎石工団地の東隣にある上宮寺(じょうぐうじ)に参詣しました。
岡崎市上佐々木町梅ノ木34
岡崎観光きらり百選です。
家康を苦しめた、三河一向一揆の発端となった寺で、一揆の拠点となった浄土真宗三河三ヶ寺のひとつです。
一向とは、一向宗のことで、江戸幕府によって強制的に浄土真宗の公式名称とさせられました。
家康の家臣・菅沼定顕が守護不介入の特権を持っていた上宮寺から、 兵量米の取立てをした事が発端です。
これで、三ヶ寺の全てを参詣しました。
他は、岡崎駅近くの勝蔓寺(しょうまんじ)、安城市南部の本證寺(ほんしょうじ)です。
過去ブログ
家康公を苦しめた三河一向一揆の拠点3ケ寺の1つ勝鬘寺(しょうまんじ)見学

本證寺は周囲に堀をめぐらせ、隅櫓のような太鼓楼のある城郭寺院ですが、上宮寺も、かつては、守りが固い寺でした。
北東南を、とても巨大な妙覚池で囲まれ、三方には土塁と堀をめぐらせ、西にも土塁がありました。
妙覚池は、今はなくなっています。
岡崎市が設置した説明板にも書いてあります。

妙覚池については過去ブログ。
液状化対策の地盤補強工法6 液状化しやすい水害実績地・巨大な元池(幸田町の菱池・岡崎市の妙覚池)

上佐々木町・下佐々木町は矢作(やはぎ)川右岸にありますが、妙覚池に臨む地形にちなんで佐崎・狭崎と称し、のち表記を改めたといいます。「崎」とは、岡崎の崎の意味と同様に、海や川や池や平野に突き出た地形をいいます。

聖徳太子創建の寺です。
聖徳太子がこの地で自身の像(御木像)をつくり、ここに寺を建てるように伝えたことが創建由来です。
山号は太子山です。上宮寺の歴史
聖徳太子は上宮皇子(じょうぐうおうじ)の別名があります。それがこの寺の名の由来です。
岡崎の真福寺も聖徳太子創建の寺です。
過去ブログ
 
岡崎・真福寺に参詣 聖徳太子創建の三河最古の寺

 
本堂等が焼失し、1996年に現代建築デザインで設計され、建て替えられました。
本堂はインドの精舎形式をイメージしたデザインとなっており、かなり大きいです。壁はコンクリート打ち放しです。
屋根の形状がそのまま天井の形状になっており、正面のガラス窓から入ってくる光で、吹の本堂内は明るく、効果的でした。

山門は本堂と同じボールト屋根デザインです。


浄土真宗の中本山として栄えた寺です。
社号碑や鐘楼がとても大きいです。

吊るされている鐘は中宮寺再興に尽力した、初代岡崎藩主・本多康重の妻・妙春尼(みょうしゅんに)の孫の妙怡尼(みょうたいに)よる寄進です。

妙春尼の墓もありました。家康の母・於大と姉妹であり、家康の乳母です。

経堂は漆喰が一部はがれており、昔からある建物だと思われます。

屋根が重なり合う、曲面平面の渡り廊下。本堂と庫裏をつなぎ、間で客殿とも行き来できます。

屋根と屋根のすきまから光が入ってきます。

庫裏は、切妻屋根の現代建築デザインです。こちらもコンクリート打ち放しです。
コンクリート打ち放しの設計をしたことがありますが、美しさを保つには、設計上の様々な配慮と、高い施工技術が必要です。

庫裏の玄関庇。大胆でシャープなモダンデザインです。焼付塗装アルミパネル張りです。

焼失した旧本堂の写真が庫裏内に張ってありました。
屋根が大きな立派な本堂でした。勝蔓寺と本證寺も屋根が大きいので、想像ができます。

大きな岡崎市指定木「上宮寺のたもの木」。

ハナミズキやツツジ、しょうぶなどがきれいでした。
次回に続く。隣の浄慶寺 へ。

 

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