Blog / KANO空感設計 あすまい空感日記・・・明日の私(MY)の住まい

岡崎と聖徳太子1 真福寺 聖徳太子が建立、物部真福が施主 三河現存最古の寺

前回ブログの続きです。前回は、「岡崎と持統天皇 手植えの奥山田のしだれ桜・村積山「花園山」命名
持統天皇が訪れ、手植えした奥山田のしだれ桜から、おかざき自然体験の森をはさんだ、南の真福寺町に真福寺(しんぷくじ)があります。
真福寺は、聖徳太子が建立し、この地の豪族であった、物部氏の物部真福(まさち)が施主です。
物部真福は、物部守屋の子です。
寺の名前は、施主の名前です。
聖徳太子は、厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれ、用明天皇の子です。
聖徳太子 wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
真福寺 (岡崎市)wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%A6%8F%E5%AF%BA_(%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%B8%82)
三河現存最古の寺院です。

近所なので、子供たちと散歩で、歩いて来たことがあります。
初詣や、紅葉狩りにも来ました。
過去ブログ 「岡崎・真福寺に参詣 聖徳太子創建の三河最古の寺」

次回に続く。「岡崎と聖徳太子2 上宮寺 聖徳太子が建立 聖徳太子直作の聖徳太子像 徳川家康と戦った三河一向一揆の拠点 三河三ヶ寺」

岡崎と持統天皇 奥山田のしだれ桜を植え、村積山「花園山」命名した女帝

前回ブログの続きです。前回は、岡崎と大友皇子5 小針1号古墳(皇子の御陵説)(小針町)
岡崎とゆかりがある皇室は、大友皇子だけではありません。
岡崎に晩年住んでいた、大友皇子の姉である、女帝の持統天皇は、子に譲位(存命中の譲位は皇極天皇に次ぐ2番目)して、日本史上、初の上皇となった後、702年に、三河行幸で岡崎を訪れています。
大友皇子と大海人皇子が争った、壬申の乱で、功労があった三河の地方豪族をねぎらいました。
三河は、大海人皇子の味方をした地域です。
大友皇子も、持統天皇も、ともに、天智天皇(大化の改新の時は、中大兄皇子)の子です。
壬申の乱で、皇位を争った、天智天皇の弟 天武天皇(乱当時は大海人皇子(おおあまのみこ))の皇后でもあります。
702年に、亡くなり、初の「天皇の火葬」をされました。
持統天皇 wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87

岡崎を訪れた、持統天皇は、岡崎市奥山田町の村積山のふもとに「奥山田のしだれ桜」を植えたとされます。
見事な、しだれ桜の大木で、綺麗に咲いている頃に見たことがあります。
過去ブログ 「岡崎・「奥山田のしだれ桜」 古木の風情」

「奥山田のしだれ桜」
https://okazaki-kanko.jp/point/443

市の天然記念物に指定されています。
高さ17mから流れ落ちるように咲き誇る淡紅白色の花は、多くの花見客を魅了します。
さらに、桜の開花に合わせて開催される「奥山田のしだれ桜まつり」期間中には、地元の方による桜のライトアップや桜茶屋(物産品の即売会)も行われます。

村積山は、秀麗な独立峰であり、三河富士とも、花園山とも呼ばれます。
持統天皇が、花の咲きみだれる美しい景色から「花園山」と名付けました。
村積山自然緑道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%A9%8D%E5%B1%B1%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%B7%91%E9%81%93

10月10日~11月12日の約一月間にわたり、持統天皇は三河にいらっしゃいました。
豊田市、豊川市も訪れています。
いつか、ゆかりの神社や史跡を訪れたいと思います。
次回に続く。「岡崎と聖徳太子1 真福寺 聖徳太子が建立、物部真福が施主 三河現存最古の寺 」

岡崎と大友皇子5 小針1号古墳(皇子の御陵説)(小針町)

前回ブログの続きです。前回は「岡崎と大友皇子4 大友皇子御陵遺跡(東大友町)」
岡崎市大友から少し北のほうに、小針1号古墳があり、大友皇子の御陵説があります。

もとは、前方後円墳ですが、削られて円墳になっています。

案内板
 「このあたり一帯は往時大小14基の古墳があって壮観を呈していたが、明治以降開墾のため破壊され、この柵内の小高い円丘、俗称大塚のみが原型を保っている。もとは前方後円墳で、周囲には円筒埴輪が巡らされていたが、今は後円部のみが現存している。
 この古墳は往古から大友皇子の塚だという伝説がある。すなわち今を去る壱千参百年前の昔、天智天皇の崩御後、皇太子大友皇子が近江の大津宮で政治をとったが、天皇の弟大海人(おおあま)皇子(第四十代天武天皇)が吉野で挙兵し、近江を攻め、大津宮は兵火にあって焼け落ち、大友皇子は敗れて自害した。(西紀六七二年、御歳25才)。これを壬申の乱とよぶ。(日本書紀)。
 しかるに西大友町に鎮座する大友神社の「社志」によると
 「大友皇子は自害したといいふらして、ひそかに一族の者数名と三河にのがれ、大海人皇子の謀反を怨み悲憤に暮れたが、ついにこの地で崩じ、小針字神田に葬られた。従者長谷部信次が神社を創建し皇子を祭祀した。これが大友神社である。大友という村名もこれに起因する」
という由緒がある。
 この塚は現在小針町字城跡一二三番地 市川金平氏の所有で、同家で先祖代々鄭重に守護し来っている。
なお大友皇子は明治三年に弘文天皇と贈り名され、御陵は大津市に建てられている。
    昭和四十六年十二月
           名古屋菱重興産株式会社 建之

大友皇子の姉である、女帝の持統天皇は、岡崎に三河行幸で訪れています。
ともに、天智天皇の子です。
次回に続く。「岡崎と持統天皇 奥山田のしだれ桜を植え、村積山「花園山」命名した女帝」

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